昭和44年05月19日 朝の御理解
御理解 第73節
「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直いことぞ。」
今日はひとつここんところを本気で頂かしてもろうて、そうだそうどころじゃないという事をですね、よく極めて頂きたいとこう思うですね。変人にならんと信心は出来んというておられる。こりゃはっきりそういう、もちろんここでいう信心というのは、本当の信心真の信心の意味でしょう。ですから本当の信心がでけずして、本当のおかげを受けられるはずがない事をまず知らにゃきゃいけません。いいえ私は毎日参りよります。毎日拝みよりますというそれそれじゃないね。
本当の信心とはね「変人になれ変人にならぬと信心は出来ぬ」というとられる。そこで本当の変人とはどういう様な事をいうておられるのであろうか。変人とは直い事ぞとこういうておられますねぇ。変人とは直い直い本当な事という事なんですよ。まっすぐい事という事なんです。直いという事はまっ直いという事。まっ直いという事は本当な事という事なんです。いわゆる正統派とこう言うですねぇ。だからそれ変人にならずしておかげを受けておるおかげは、だから本当の事のおかげじぁないという事ですね。
それはもう影のようなもの、泡沫のようなもの。それはおかげを受けます。商売繁盛も出来ます。病気も治ります。けれども私共がですね、ここのところの信心にもとずいて、真の信心を求め求めしての信心。真の信心をさせて頂く為には、真の修行を本気で求めての又はさして頂いての信心。そこから生まれてくる信心又はおかげ。それが本当のおかげだ。本当のおかげというのは、御神徳を受けてそこから立ちゆくおかげ。あの世にも持っていければ、この世にも残しておけるというようなおかげ。
だからそういうところのおかげを頂かして頂かねばならんね。変人というとここ辺りでは、あの人は変人とこういうのは、風雅人という様な意味の事を変人と申しますがね。じゅうげもんとも言いますよね。ありゃ十ゲもんじゃ、人が右ちゃ左、山ちゃ川。もうあの人は山川さんだからと、いう様なのを変人と言います。けどもここに言う変人は直い事。ここに私はそのうまぁ教祖様の心中と言うか、天地の親神様の心中をおし計ってみる時に、本当に本当な事をする。
真っ直い事をする者を変人と呼ばなければならない程に、この世の中はまっ直い事をしてない者が多いという事ですよ。天地の親神様も辛いこれはお言葉だと思いますね。教祖様も変人と言わなければならない程に、本当の事をしておる者が少ない。本当の事をしておる者を変人と言わねばならない程に、やはりこの世の中っていうものは、まぁ混沌としたものであるという事。言うなら間違いだらけの者が殆どであるという事。その中にですそれこそ雨夜の星の様ではあるけれども。所々にピカピカと光っておるもの。
それがお道の信心を頂いて、本当な事を分からしてもろうて、本当な事をまっしぐらに頂きぬこうとする人、それをここでは変人とこう言うておられる。そういう変人になろう、又は変人に成らなければです、そういう成ろうと言う願いと、成らなければ成って行かなければですね。だから信心は出来んと言うておられる。変人になれ変人にならぬと信心は出来ぬ。変人と言うは直い事ぞと言うておられる。そこでですね、お互いの幸福の焦点とでも申しましょうか。
私今朝方ここのやっぱりある御信者の事を、お願いして貰っておりましたら、金が全てだと思っておるね。お金が全てだ。信心さしてもらいよるけん健康のおかげは頂く。ある意味で自信は持っておる訳です。本当の信心は出来けんのにですよ。いよいよの時には神様にお願いすりゃよかけんという位のものは持っておる。やっぱ二十年も信心の稽古をしておりますから、いよいよの時にゃ神様にお願いすりゃええ。や子供達、子供達でんそうです。その人の信心に家内でも信心にはついちゃ来ん。
子供もついちゃ来ん。何十年信心しよる。けれでもまぁ商売繁盛しよる。その人はですね信心してお金を儲けさせてもらうと。もうそれがね全てのように思うておる。果たしてそういう考え方で、いよいよの時に問屋がその人が思うておるようにおかげを下してくれるだろうか。どうかある時にはもういよいよ一心にお縋りしよきゃ健康になれる。子供達がついてこんでちゃいよいよの時にゃ又おねがいすりゃおかげ頂けるという、その辺のところは暗澹とした考え方を持っておるですねぇいうなら。
家内がついてこんでん、金で動かそうと思うておる。もう勿論そういうお金儲けの上には、やはり商売も順調にいっておりますし、おかげも受けております。ここの信者の事ですよそれは。だから今日の御理解からいうと、本当に脇から見るとよか信心のごたるばってん、これではね本当な信心ではないという事です。しかしそういう信心信者が、どのくらい多いかもまた分からないという事です。金が全てだ。歌の文句にあるでしょうが最近の中に、君が全てだという。もう君が私にとって全てなのだと。
だから君さえ得る事が出来れば、もうそこで幸せだと思うてる訳です。果たして君を得たからというて彼女を得たからというて、幸せになるでしょうかそれだけで。そうじゃないでしょうが。金が無い金に難儀をしておる時には、ここに金さえあればとこう思う。本当に金が全てというように思うのですけれども。又これが段々溜まり出して来ると面白か。ですけぇもう金さえ溜めて行きゃ家も立派になるし、土地も買う事が出来るし、商売も拡張する事が出来るし。
給料さえ払えやぁね、他所が10円のとこ15円例えば払えば人はついて来るとこう思っておる。それでも信心しておるから、いよいよ病気の時にはもちろん、病気の時にゃ医者もありゃ薬もあるね。そしてお願いしていきゃおかげは頂けるというように、まぁ感じておる訳です。今日の変人になれ変人にならんと信心は出来ぬ。その変人という事は直い事だと、本当な事だという例えばおかげを頂く為のですね、その手掛かりとしてです。どういうような信心をまず試みると言うかね。
先ずそういう信心にならして頂くかという事を、今日今この、七十三節を頂いた時に、すぐその事を頂きました。ここの御理解は、もう何十回となしに繰り返し、あらゆる角度から頂いております。ですから今日はここのところの、変人にならなければね信心は出来んと、こうはっきり言うておられるね。変人になるという事を特に強調して、聞いて頂きお話しをしたいと思うておりますから、そこんところを聞いて下さい。自分は果たして変人だろうか。
もし変人としての生き方になってないならば、あぁたの信心はそりゃ本当な信心じゃないと先ず知らにゃいけません。そしたらね。こういう事を頂くんですよ。わざとのしてください、合楽の楽という字を皆さんちょといっぺん皆さん書いて御覧なさい。そこに合楽の楽という字を。その合楽の「楽」という字を書かれたらね。下への方へこう真ん中へ「白」を書いて糸辺を両方に書いて下が木という字ですね。カタカナのホという字。木という字。そのね下の木という字のところの点々を。
フッーとこう消してしまう所を頂くんですよ。いいですか。この下の木という字のこの点々ですたいね。カタカナでいうとホという字。ホという字のてんてん。これは字にはなりませんけれども。ここで私が気付かせて頂いた事です。楽という字を崩してしもうた。いうならこれは木は心といつも言うでしょ。私。でからだからね。結局楽はもうせんぞという気になるという事です。楽はせんぞという気に成るという事です。だからね金光教の信心すりゃ、もう楽は出来けんというふうに、まぁ思うちゃいけませんよ。
そんとこちょとそこに説明を加えるならね。楽はせんという気になりゃ、神様がさせて下さるんですよ。温泉にもやらして下さるだろう。お芝居も見せて下さるだろう。眠うして眠うしてもうたまらん時にゃ、それこそもう一日でも二日でん、ぶっ通しで眠らして下さるようにおかげを下さるだろう。もう楽はせんぞという事は苦しい事じゃ決してない事を、ひとつ知らにゃいかんですよ。只自分から求めて楽をしようという心を捨てるという事だと私は思うたんです。「楽はせんぞという気になる」事です。
そこにはね、神様の楽をさせずにはおかんという、もう本当に神様のおかげをそこに身近ぁに、感じるから神様からさせて頂いておると楽と思うから、その楽がいよいよ有り難い。温泉に行っても私が温泉に行こうちゅうたらいくとよりかね、行かせて頂く温泉は、そりゃ素晴らしか。本当にそこが極楽のように感じられる。お芝居でも私がお芝居見げ行くというのじゃなくて、お芝居を見せげやらして頂くという事になってくるとね、そのお芝居のその雰囲気というか。
、本当にこの世にこげな面白いこつが有るじゃろうかと言ごたる事になってくるのです。最高のおかげが受けられるという事なんですよ。楽をせんという事は。楽はせんぞという気になる事はね。そしてからですよ。今んとこ分かったね。いまの楽の説明は分かったでしょ。そしたらあと又頂く事がね。そのうさっきの話しじゃないけれども。お金が全てさとこういうね。全てという字を書いてごらん。全てという字はまったく。全という字じゃね。全という字。書いたね全てという字を書いたでしょ。全という字。
それにね。今とったばかりの楽の点々をもっていってご覧ここに。どげんなるですかね。どうなりましたか。日吉さんどげんなったね。金という字になるでしょうね。そこで頂いた金であって金が全てさという事になるのですよ。そこを一辺通ってからね、点々を楽の点々をこの全てのここに持って来てです。初めて金になるのですよ。金という事は金だけの事じゃない。物という事だけでもない。人間の幸せの全てという事なんですよこれは。私共が願って願ってやまないその本当のおかげというのはね。
変人にならなければね信心は出来けんのであり、本当の信心が出来なければ人間の幸せは許されないです。そこでまぁ申しますとですねならどういう事になるか、君が全てさでもなからなければ、金が全てという事じゃないね。まぁそんな事を申しますよね。地獄の佐汰も金次第。いわゆる是は金が全てという意味なんです。どげなこっでん金さえあればどげんこっでん出来る。所がどげなこつでん出来んでしょうが。どれだけ金が有るやら分からんという人がです、米一粒が喉を通らんという人が有るでしょうが。
どのような高価なお薬を飲んでも、どの様ないわば天下の名医に手を握って貰っても、さぁどうにも出来ない。米蔵の中におりながら米一粒が食べられんという人が、世の中には沢山おるでしょうが。病院に言ってみて御覧なさい。こんなにもこの世には不幸な人がおるだろうかという位にうようよしてますよ。金が全てではないでしょうがね。と言うてそれは軽いものでも汚いものでもない。今も申します楽のてんてんを取ってです。楽はせんぞという様な生き方。そういう生き方をする人をですね。
私は今日は変人として頂いていいと思いますね、変人。教祖様が今日が休みだ休日だという様な時にでも、やはり外へ出てから道普請をなさったりしたという事です。今日位は休みなさいと言われてね、天とう様は毎日働いて下さるのに、自分達だけが安閑としちゃ物体ないとこう言われたという。もう本気でひとつ楽はせんぞという気にならしてもろうてです、楽をさせて頂くという本当の楽をさせて頂く。その楽をさせて頂くという事にはですね。変人変人とは直ぐい事ぞと。まっ直い事ぞ。
これが本当だと思う事は、よし例え人がそれは笑うてもそしってもです。これが本当だという事をやりぬかせて頂く。その本当の事がいくらもありましょうがです。今日はその本当な事をです。私共が楽はせんぞという気になって、楽をさせて頂くという気になるという事をです、今日は私変人というふうに聞いて頂きました。その楽の例えば点々をとったのは、どういう事になるかと言うとです。白に糸辺と書いてあって下にプラスという字だけが残るでしょうね。
白という事は今頃からも御理解頂きますように、白紙になろう白紙にしよう。そしてこれからの事にしようというふうに言う時に白紙にとこう申しますね。問題もねどんなに複雑な問題であってもです、一遍白紙に返そうと言うたら、そこから新たな道がついて来るのです。ここのところの樂の白という字は、そういうふうに頂かにゃいけんね。自分が今までの思い方考え方が間違うとったのを一遍返してしまう、白紙に。そこに糸辺いうのは糸これは繋がり、天地との繋がり、神様との繋がりがそこに出来るのです。
両方に点があるから、天と地に繋がるという意味に頂いたらどうでしょうか。その白紙の心こそが、天地に繋がるいわば心なのですよ。純粋無雑と言うですかね、そういう心なのです。そういう心がですね、いわゆるプラスになるちゅう。人生の幸せへのプラスである。そして後にですね、そして後に頂く点々になった時に初めてのそれが樂。それを極楽という。私共がねここに金さえ有ればとか、健康さえ有ればと、もうそれが全てのような思い方を一遍白紙にしてね。
とにかく信心が全てだというところにならなければいけないという事です。真の信心が幸せの全てなのだ。そこから人もついて来るだろう、物もついて来るだろう、金もついて来るだろうね。しかもそれはあの世にも持っていければ、この世にも残しておけるという、有り難い事になって来るのです。変人にならなければ信心は出来ぬとこう言うておられます。ですからどうでもその変人を目指さなければいけません。これからもっともっといろんな本当な事が分からしてもらうね。
それを真実又は真実心とかね、真とか真心とか申します。又は真理とも申しますね。真理を追求する。本当な事を追求していくという事なんです。だからけれども今日はここでですね。これはこれはもう全く本当な事だと、私今日は皆さんに確信をもっていよいよお伝えしておる事はです、樂はせんぞという気になって信心をするという事は、これは本当な信心が出来る先ず第一歩だと。そこから信心が出来るんじゃない。信心がそこから出来て来る。そこから信心の喜び本当の信心の喜びが分かって来る。
その生き方がです直い事になって来る。まっ直い生き方という事。金が全てさという人はですね、金さえ儲けとけばどげな楽でん出来ると思うとるですね。金の方を先に立てて、金さえありゃどげな事でん。それこそ閻魔さんでん言う事聞かせる事が出来ると思うとるです。こういう考え方はもう大変なもう本当な事じゃないのですから、ひとつ捨て切らねば駄目です。全くこれは全く嘘です。その証拠を自分の周囲周辺を見てみるがいいです。金だけで幸せになれるもんかどうかね。
君が全てでもない。金が全てでもない。いわゆる信心が全てなのだと。そこで全身全霊全魂をです、信心に打ち込むという事がです、いかに有り難い事からという結果になってくる訳です。だからそういう生き方を教祖は、ここでは変人と言うておられるだと思うのです。変人になれ、変人にならぬと信心は出来ぬ、変人というは直い事ぞと。昨日から三つの宝という事について頂きましたですねえ。そういう心、今日のような心になってですその三つの事に取り組む。
いよいよ三宝様ね三つのの宝が身について来るおかげになって来るんです。皆さんひとつ皆さんの楽の字からひとつ点々をとって、楽を崩さにゃいけません。そこに神様といわば直結する繋がる道が、そこにかすかにではあっても出来る。そしてその点々をですね。全てと思うておった事。これが全てだと思うておるその全てのところへ点々は持っていく事にせにゃいけません。それが言わば金という事になる。信心が全てだという事になって、金であり健康であり物であり人であるという事になるのです。
ここんところをひとつよう分らしてもろうて、本気で変人にならして頂く稽古をせないかんね。どうぞ変人になれ変人にならんと信心は出来んと仰っておられるのですから、しかもその変人とは直い事だと、本当の事だとまっ直い事だと、そのまっ直い事の手始めとしてです。ひとつ本気で楽はせんぞという気にならしてもろうて、楽はさせて頂くものだと、悟らせてもらわなきゃいけません。させて頂く楽そこに極楽がある。
どうぞ。